ブロガーの正しい資質とは

はじめに

私たちは、世界をより良くしたいと思っています。 ある者は研究室から、またある者は会議室から、そして私たちはインターネットからそれを行おうとしています。 次世代の子どもたちが、より良い世界を生きられるかどうかは、私たちの選択に懸かっています。 もしも、私たちが選択を誤れば、次世代の子どもたちが大きな代償を支払うことになるでしょう。

この記事では、ブログに関する様々な問題点について考えていきます。 それらは、今まで慣れ親しんで疑いを感じたこともないほどよく知っていることばかりです。 なぜ、よく知っていることばかり取り上げるのかと言うと、ブログにおける哲学的な問題を明確にするためです。 難しく感じるかもしれませんが、すでに私たちは日常生活において哲学的な問題に直面し、答えを出しながら生きています。 それらの問題とは何か、どのような答えをだしているのかを見ていきましょう。

ただし、この記事を読むことは、ある種のリスクを伴います。 そのリスクとは、あなたがよく知っていることを、見知らぬことに変えてしまうリスクです。 そして一度変わってしまえば、二度と同じものには戻りません。 哲学を知らないことは、目は覚めているのに夢の中にいるようなものです。 逆に哲学を知ることは、夢から覚めて、二度と夢の中には戻れなくなるでしょう。 これは自己認識を探求するための物語です。

哲学による自己認識の探求とは、ある意味で純真さを失うようなものです。 それは新しい情報を与えることによってではなく、新しい視点を喚起することによって失われます。 純真さを失うことは、あなたを良いブロガーにするよりも、むしろ悪いブロガーにする危険性を秘めています。 あなたの理性や良心が正しい行為を望むならば、これから何年も解決できない道徳的な問題と向き合うことになります。 もしもあなたが良いブロガーを目指すなら、一緒にこれらの道徳的な問題と向き合い、考え続けなければなりません。

しかし、哲学という学問は、節度を超えて追求すると破滅し、実践では何の役にも立たず、アリストテレスの時代から議論を続けていますが、いまだに結論がでていません。 そのため、哲学は意味のない学問ではないかと疑問視されることもあります。 懐疑主義者は結論の出ないような議論は捨てて、各自が自分なりの原理を持てば良いと主張します。 確かに、歴史上の賢人が長い年月をかけても解決できなかったのだから、このブログを読む私たちが簡単に解決できるわけがありません。

しかし、長年に渡って議論され続けてきた事実は、問題の解決がたとえ不可能であったとしても、議論し続けることが避けられないことを示唆しています。 懐疑主義に飲み込まれてしまい、道徳に関する熟考をやめては解決にはなりません。 ドイツの哲学者であるカントは、懐疑主義の問題を次のように表現しています。

quote
懐疑主義は人間の理性の休息所である。そこは独善的なさまよいを熟慮できるところだ。しかし永久にとどまる場所ではない。単に懐疑主義に同意しても、理性の不安を克服することは決してできない。
イマヌエル・カント

この記事の目的は、あなたのブロガーとしての理性や良心の不安を目覚めさせることです。 これから、ブログにおけるリスクと誘惑、そして危険性と可能性について示していきます。

また、本記事ではブログのデザインやマーケティングなどの、テクニカルなテーマについては取り上げません。 ブログにおける Web ユーザビリティや、Google 検索エンジン最適化については、個別のページを参照してください。 本記事では、それらの事前知識がある程度持っている人に向けて書いているため、用語の細かい説明はしていません。 ご了承ください。

ブログとは何か

物語の始まりは、もっとも基本的な質問から始めましょう。 ブログとは何かと質問されて、明確に回答できるブロガーはどの程度いるでしょうか。 ここで期待する回答は、ブログのことを何も知らない人への回答ではありません。 ベテランのブロガーへの回答です。 あなたの回答をぜひ聞かせてください。 その回答には、あなたのブログに対する想いや本質がたくさん詰まっています。

ブログとは、Web 上のログ (weblog) を blog と略称しています。 一般的なブログの認識は、オンライン上の日記のようなイメージがあります。 実際に Google で「ブログ」と検索すると、有名人のブログ (日記) が表示されます。

しかし、ブログは日記だけではありません。 覚え書きや、論評などの記事も含まれ、その範囲は多岐にわたります。 また、ブログと SNS は、とてもよく似ているプラットフォームですが、役割が異なるため明確に区別されます。 一般的には、ブログは情報の発信、SNS はコミュニケーションの役割を担います。

ブログは、インターネットの海を構成する大海の一滴で、誰でも自由に参加できます。 2018 年時点で存在している Web サイトの数は、約 20 億サイトと推定されています。 ただし、使用されていないドメインを除くと、約 5 億サイト程度になります。

Web サイト数の推移
Web サイト数の推移

ブログへの新規参入のハードルは高くありません。 レンタルサーバを契約しなくても、オンラインサービスを利用することで、すぐにでもブログを始めることができます。 note などのサービスでは、記事を有料化することもできるため、収益化することも容易です。 しかし、量の増加は質の低下を招きます。 ブログには、希少性が高く高品質な情報もありますが、残念ながらそうでないブログもあります。 特に収益化のハードルが低いことは、低品質の情報が氾濫する危険性があります。

もしも、多くのブロガーが本来の意義を見失い、インターネットを汚染すると、Web サイト自体の信頼性が損なわれます。 悪貨は良貨を駆逐するの要約で知られる「グレシャムの法則」は、経済学だけではなくブログの世界にも当てはまると考えています。

もしも、低品質なブログがインターネットに氾濫すると、インターネット上にある情報性の信頼性が低下します。 そうなると、高品質な記事でさえも信頼性が疑われ、情報の評価が難しくなります。 インターネットは自由な空間ですが、その秩序の維持は個人の良心に大きく依存しています。

幸いなことに、今のところ Google の努力によって多くのトラフィックは低品質の記事に流れていかないようになっています。 しかし、それはユーザに高品質な情報を提供するプラットフォーム側の責任であり、私たちも道徳的な義務を果たす必要があります。 道徳的な義務とは、インターネットの秩序を守るための行動です。 Google はインターネットの情報を裁くための裁判所ではありません。 インターネットの秩序は、私たちに委ねられています。

インターネットの秩序が私たちに委ねられているならば、私たちはブログを通じて、どのように世界と関われば良いのでしょうか。 ブログを書くためには、どのようなことに注意するべきなのでしょうか。 ブログについてより深く知るために、ブログの必要性、SNS との違い、ブログを書く理由、そしてブログは誰のものかを考えていきます。

ブログの必要性

ブログは 1990 年代後半に登場して以来、ユニークなプラットフォームとして成長してきました。 ブログの必要性の議論は、その頃から何度も繰り返しされています。 ブログの必要性に懐疑的な人は、ブログはオワコンだと主張します。 一方で、ブログはこれからも必要であると主張する人もいます。 不要論と必要論、双方の主張を確認してみましょう。

ブログが不要だと主張する人たちの意見は、以下のとおりです。

  • テキスト自体が読まれなくなっている (特に若い世代)
  • 他のメディアとの役割が重複している
  • SEO 対策が時代遅れになり、競合優位性が低下している
  • ブログ以外のプラットフォームの方が汎用性が高い

次にブログが必要だと主張する人たちの反論は、以下のとおりです。

  • テキストコンテンツがなくなることはない
  • テキストコンテンツでなければ扱いにくいコンテンツがある
  • ブログと SNS の役割は異なり重複していない
  • ブログはプラットフォームに依存しない差別化を行いやすい

ブログの不要論と必要論の主張から論点が見えてきました。 程度問題にせよ、どちらの主張にも説得力があります。 論点を整理すると、テキストコンテンツの価値、役割、競合優位性、差別化になります。 それらの点について、どちらの方がより説得力があるか見ていきましょう。

ブログが必要とされる目的や動機は、セルフブランディング、情報の発信、マーケティングなどがあります。 しかし、それらを達成するための手段は、今日でさえブログである必要はあるのでしょうか。 例えば、その役割や可能性を SNS に譲ることは可能でしょうか。 以下は主な SNS が公表している日本国内の月間ユーザ数ですが、数字だけを見ればプラットフォームとしては充分のように思えます。

主な SNS の月間ユーザ数 (日本国内)
TwitterFacebookInstagram
月間ユーザ数4,500 万人2,800 万人2,900 万人
アクティブ率70.2 %56.1 %84.7 %
公表時期2017 年 10 月2017 年 9 月2018 年 11 月

一般的にはブログと SNS は明確に区別されます。 しかし、それでも Twitter、Facebook、Instagram などによって、ブログと SNS の境界線は曖昧になりつつあります。 セルフブランディングとして SNS のマイページを活用したり、書いた記事をポートフォリオとして公開することもできます。 そのため、ブログで表現できることは SNS でも表現できるように思えます。

しかし、ブログと SNS では、情報を発信する媒体としてストック型フロー型に分類され、それぞれの特性が異なります。 ブログは情報の寿命や、検索エンジンとの相性が良い点に対して、SNS は情報のリアルタイム性や、拡散するためのプラットフォームとして最適です。 ブログとその他のプラットフォームの役割は、一部で重複している点はありますが、どちらかが上位互換になることはありません。(詳細は後述する「ブログと SNS の違い」の章を参照) そのため、何かのプラットフォームに依存した状態で、ブログの競合優位性が失われたと論じることに説得力はありません。

Web マーケティング戦略では Twitter や Facebook のキャンペーンを重視し、ブログは軽視されがちです。 しかし、ある調査でブログを掲載している企業は、そうでない企業よりも毎月 67 % 高い利益をもたらす統計結果が出ています。 テキストコンテンツがなくなることはありませんし、情報を整理するフォーマットとしては最適です。 この結果は、ブログがマーケティングツールとして、いかに強力であるかを実証しています。

ブログがマーケティングツールとして効果を発揮するのは、頻繁に更新される場合です。 更新されないブログに対する反応はネガティブですが、更新され続けているブログは多くの点でポジティブな評価を受けます。 ブログはこれからも必要とされており、SNS が次世代のコンテンツを担うとしても役割が異なるために代替することはありません。 ブログの必要性は根拠のない推測や憶測ではなく、客観的な統計データが示しています。 ブログが不要であると唱える人たちの意見は、ある程度までの説得力はありますが、やや極端で客観的ではなく論理的根拠に乏しいと言えます。

ブログと SNS の違い

例えば、あなたの日記をブログに公開したとします。 そのブログには、あなたの価値観や世界観を表す言葉で書かれています。 あなたは、その文章を理解して共感してくれる読者を想定して書いていますが、本来そのような文章を正しく理解できる読者は存在しません。 なぜなら、あなたとまったく同じ価値観や世界観を共有できる読者は存在しないからです。 あなたがこれまで歩んできた人生、そこから得た価値観や世界観、周囲の環境や人間関係、抱えている問題、それらはすべてあなただけのものです。 しかし、それらはすべて SNS でも同じことが言えます。 それならば、ブログと SNS で明確な区別は可能なのでしょうか。

ブログにもコミュニケーションツールとしての側面があります。 何かの情報を発信すると同時に、同じ考え方を持つ人たちとのコミュニケーションが可能です。 それは、直接的なコメントであったり、間接的な SNS での紹介であったり、フィードバックの形は様々です。 コミュニケーションの中には、積極的にフィードバックを行わないサイレント・マジョリティの存在も含まれます。

ブログが情報の発信で、SNS がコミュニケーションを目的としているのは程度問題であり、本質的な違いはないように思えます。 しかし、ここに時間軸を加えると情報の扱い方が変化します。 時間軸を加えると、ブログはストック型記事で、SNS はフロー型記事であると言えます。 ブログでもニュース記事などフロー型と呼ばれる記事は存在しますが、SNS で発信される情報の速さの比ではありません。 このように、時間軸を意識すると役割も異なり、目的も変化します。

ブログと SNS の比較
特性ブログSNS説明
リアルタイム性情報を受け取るまでの時間。ブログでも通知機能を利用することでリアルタイム性の確保は可能。
情報の寿命×情報が失われるまでの時間。SNS はフロー型であるため、寿命が極端に短い。
検索性情報の見つけやすさ。SNS はブログに比べて Google などの検索エンジンとの相性がやや悪い。
拡散性×情報の広がりやすさ。ブログに拡散性はなく、SNS を通じて拡散される。
集客性人の集めやすさ。マーケティング戦略においてはブログも SNS も役割が異なるだけで優劣はない。
信頼性情報の正確さ。ブログも SNS もデマやフェイクが存在するが、SNS の方がやや信頼性に劣る。
収益性利益の上げやすさ。ブログも SNS もプラットフォームに適した方法であれば優劣はない。

逆にブログと SNS の共通点もあります。 それは、知名度と情報のファインダビリティです。 多くのフォロワーを持つ有名なブロガーは、日常の日記でも多くの人に認知され、拡散される可能性も高くなります。 オーソリティのスコアが高ければ、Google から検索しても上位に表示されるかもしれません。 しかし、無名のブロガーはフォロワーも少なく、ファインダビリティが極端に低いため、情報にアクセスすることが困難になります。 この点については、後述する「情報格差」の章で詳しく述べます。

ブログを書く理由

あなたが、ブログを書く理由はなんでしょうか。 ブログを書くためには、サーバ代などのコスト以外にも、自由や時間も大きな制約を受けます。 しかし、それでもブログを書く理由や動機は様々です。 お金を稼ぐためや、フィードバックによる評価の獲得、コミュニケーションや情報の整理、純粋に文章を書くことが好きな人や、ストレス解消のために書く人もいます。 つまり、自分にとって何かしらのインセンティブが発生することが、ブログを書く大きな理由です。

ブログを書く理由はブログの生存率に直結します。 ブログの 90 % は数年以内に何かしらの理由でインセンティブが失われています。 インセンティブが失われたブログは放置されるか、サイト自体が閉鎖されています。 インセンティブが失われた主な理由としては、トラフィックの低下、他者との比較による自己嫌悪感、初心や目標の喪失などが挙げられます。

ブログは、常に新しく生まれては消える泡のような存在ですが、自然発生的に生まれるものではありません。 何かしらの理由や目的があり、誰かの人の手によって生まれてきます。 しかし、それでもブログの出生率にはある程度の偏りが認められます。 Netcraft が 2018 年 6 月に Web サイトの数を調査した結果を見ると、調査時点の前月 (2018 年 5 月) から約 2 億サイト (インターネット全体の約 11 %) が消失していることになります。

ブログの書き手が失われることは、インターネットの世界にとっては深刻な問題です。 生き残るブログが、必ずしも信頼性の高い高品質のブログである保証はありません。 ブログを書き続けるためには、適切なモチベーション・マネジメントを行う必要があります。

あなたがブログを始めたきっかけは何ですか。 ブログを始めてから今まで得られたものは何ですか。 一緒に頑張ることができる信頼の置ける仲間は誰ですか。 あなたにとって、ブログを続けるためのインセンティブは何ですか。 それらの答えは、あなた以外の誰かがきっと必要としています。 新しいブロガーは、あなたの動機から生み出されるかもしれません。

ブログは誰のものか

このタイトルは、少し奇妙なものに思えます。 私たちは、ブログが自分のものであると直感的に知っています。 確かに法律的にブログの著作権や権利は作者のものです。 しかし、本質的にブログは読者のものと考えることができます。

自分用のメモとして書かれた非公開のブログは例外として、あなたのブログは誰かに読まれることを期待しているはずです。 ブログが何を目的として存在しているのか考えたとき、存在論をこえた目的論にぶつかることになります。 目的論として、ブログの目的は 2 つの側面から考えることができます。

ひとつは、社会の幸福のために一般的福祉を最大化する功利主義の考え方です。 功利主義は、社会全体の快楽が苦痛を上回るように、効用を最大化することです。 ブログに当てはめて考えれば、良質なブログはより多くの人に読まれ、悪質なブログは読まれなくなるべきという考え方です。 そうすることで、ブログが社会全体に与える便益を最大化することができます。

もうひとつは、ブログそのものの目的因 (テロス) についての考え方です。 ブログの目的因とは、ブログが持つ目的、意義、目標を重要視します。 例えば、最高のデザインについて書かれたブログは、最高のデザイナーが読むべきという考え方です。 最高のデザインについて書かれたブログの目的は、最高のデザイナーに読まれる目的で存在しているという考え方が目的因です。 目的因には、有益な情報を分配するにあたって、ある種の差別が含まれます。 重要な点は、その差別が関連する卓越性であり、その他の根拠において分配することは正しくないという点です。

ブログを読むために高額な課金をしなければならないケースでは、本来読むべき読者が貧しいと正しく分配されない可能性があります。 例えば、よりお金を必要としている貧しい人が高額な課金をしなければ、お金を稼ぐための情報にアクセスできないなどです。 このケースでは、経済的な功利主義には成功していますが、目的因としては失敗していると考えることができます。

善悪の彼岸

ある分野に秀でている人や、何かで成功している人や、立派な肩書を持っている人に対して、私たちは盲目的な勘違いをしてしまいがちです。 これは、ハロー効果、または錯覚資産 (勘違いさせる力) の用語で知られています。 例えば、月間 100 万 PV を達成しているブロガーに対して、きっと頭もセンスも良いのだろうと錯覚してしまうことです。

インターネットの世界には、平気でうそをつく人たちがいます。 その人たちの中には、影響力のあるインフルエンサーも含まれます。

人間は、正しい事実よりも、自分が納得する幻想を選択する場合があります。 自分に都合の悪いことから無意識的に目を背けてしまうのが典型例ですが、それは人間の直感的な防衛本能です。 しかし、その行為は事実を曲解させ、判断を誤らせます。 そして、その結果は権力者たちにとって都合の良いものになります。

ブログや SNS に事実をそのまま書かなければいけない義務はありません。 自分には都合の悪い部分を隠して、あるいは読者に誤解させるような表現で書かれていることもあります。 情報リテラシーの低い読者は、そのような虚実に惑わされて欺かれる場合もあります。

特に金銭的、精神的、時間的など、何かに追い詰められている人や、自分を変えたい欲求、自分の好きなように生きたいという欲求の強い人ほど注意が必要です。 欺こうとする人間は、自分の利益のためならば他人の人生をも平気で犠牲にします。

例えば、学校や会社を辞めて、素顔と実名を晒してブログを始めることを「覚悟」などと耳障りの良い言葉で煽動しますが、それは退路を塞ぐことが目的かもしれません。 その後で、何かしらの矛盾に気がついても退路が断たれているため、元の環境に戻ることはできません。 しかし、今までの金銭的、精神的、時間的投資が無駄になることを惜しんで、失敗すると確信しながらも更に投資を行うケースも珍しくありません。

ここでは、悪いブロガーに騙されないための防衛術について説明します。 具体的には、インターネット上に存在する邪悪な人や、それらが属するコミュニティ、そして正義という名の暴力について考えていきます。

邪悪な人

邪悪な人とは、どのような人で、どのような特徴があるのでしょうか。 もっとも注意しなければならない点は、これは程度問題であり "善" か "悪" かの二元論ではないという点です。 誰しもが、ある程度の邪悪さを持っており、ある程度の善良さを持っています。

アメリカの精神科医である Morgan Scott Peck が 1983 年に出版した People of the Lie: The Hope For Healing Human Evil (邦題:平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学) では、邪悪な人間の条件を "自分の非を絶対に認めず、自己正当化のために嘘をついて周囲を傷つける人物" と定義しています。 邪悪な人の問題点は、自分とは違う他人という存在を認めず、尊重もしない点です。 彼らの目的は、自分が信じたい自己像を守ることであり、その自己像を破壊されそうになると嘘をつき、事実を捻じ曲げ、他人を貶めようとします。 著書の中では、邪悪な人を「自分が見たくない自己像や罪悪感から逃げ続ける、本来哀れむべき存在」と断じています。

邪悪な人への対応を間違えると最悪の場合、取り込まれてしまう危険性があります。 邪悪な人の特徴は後述しますが、基本的な対応としては相手に指示を与えず、一切取り合わないことです。 例えば、あなたに「死ねば良いのか?」と選択を迫ってきても「それはあなたの問題です」と突っぱねることです。 「死ね」や「死ぬな」のどちらにしても、相手に指示を与えていることになります。 その結果、最悪の事態に発展すると「死ねと言われたからやった」などと、巻き込まれてしまう可能性があります。

邪悪な人とは、承認欲求や自己顕示欲が高い人で片付けられる問題ではありません。 防衛術の最初の一歩は、敵を知るところから始まります。 それでは、邪悪な人とはどのような人間なのかを具体的に見ていきましょう。

罪悪感の拒否

人間は、誰しもが善悪では割り切れない選択や行動をしています。 ときには、罪悪感を感じながらも悪いことをするでしょう。 しかし、邪悪な人は罪悪感に耐えることを絶対的に拒否する点において、一般人とは区別されます。 いつまでも学習せずに、必ずそうする定常性にこそ邪悪な人の特性があります。

例えば、邪悪な人に対して過ちを指摘しても、罪悪感に耐えることができないため、きちんと謝ることができません。 後述する「自己正当化」や「自由意志と自己統制感覚」によって回避しようと試みます。 邪悪な人は、必ずそのような行動を取り続けます。 ただし、きちんと謝れない人は必ずしも邪悪な人であるとは限らない点に注意してください。

他者を攻撃する動機と目的

邪悪な人は、自分自身の欠陥を直視できない代わりに他人を攻撃します。 自分の精神的な成長を回避するために、権力、地位、圧力など様々な方法を使って弱者を利用したり、攻撃したりします。

邪悪な人は批判されたときに一見謝っているかのように見えて、自分自身の欠点を直視できないために反省の伴わない謝罪をしながら相手を攻撃します。 例えば、「真意が理解されなかった」とか、「自分は悪いことをしていないが相手の感情を害したから」などの理由で謝ります。 これによって、「自分は何も間違っていないが、相手が勝手に問題を起こしている」という図にすり替えます。

反社会性パーソナリティ障害

反社会性パーソナリティ障害は、社会的規範や他者の権利・感情を軽視し、人に対して不誠実で、欺瞞に満ちた言動を行い、暴力を伴いやすい傾向があるパーソナリティ障害です。 このパーソナリティ障害は、端的に言って良心が欠如しているだけです。

しかし、良心が欠如しているだけでは先天的なサイコパス的人格者ですが、邪悪な人はそれだけでは説明がつきません。 類似する用語として、後天的なソシオパス (社会的病質者) があります。 ソシオパス的人格者の特徴は、道徳性や倫理観を持ちながらも、周囲の反応をうかがい悪いことをする点においてサイコパスと区別されます。

自己愛性パーソナリティ障害

自己愛性パーソナリティ障害は、ありのままの自分を愛することができず、自分は優れていて素晴らしく特別で偉大な存在でなければならないと思い込むパーソナリティ障害です。 邪悪性とは、罪悪や不完全性に対する意識の欠如ではなく、そうした意識に耐えようとしない気持ちから生じます。 彼らは自身の邪悪性を自覚していると同時に、そうした自覚から逃れようと必死の努力をします。

邪悪な人と精神病の人との違いは、邪悪な人がある特殊なタイプの苦痛から逃れようとする点にあります。 特殊なタイプの苦痛とは、自分自身の良心の苦痛や、自分自身の罪の深さや不完全性を認識することの苦痛です。

精神的に健全な人は程度の差こそあれ、自分自身の良心に従いますが、邪悪な人はそうではありません。 自分の罪悪感と自分の意思とが衝突した場合、常に撤退するのは罪悪感であり、勝つのは自分の意思になります。

例えば、何か問題点を指摘された場合、「自分がどれほど大変か」をアピールする自虐的な謝罪を行います。 その他にも、訴訟をチラつかせたり、自分の命を人質に「死にます」などの脅迫も相手を攻撃する手段として用いられます。

自己正当化

邪悪な人が、良心に反して自分の意思を選んだ場合、自己を正当化する理由を強く主張します。 自分の信じる完全な自己像を守るために、私欲ではなく道徳性に従って行動していることをアピールして外見を維持しようと努めます。

彼らは、社会的規範や他人が自分をどう思うかについて鋭い感覚を持っています。 そして、外向けには善人であるかのように振る舞っています。 つまり、彼らには善人でいようとする動機はありませんが、善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのです。

邪悪な人は、何か問題点を指摘された場合、冷静なふりをしながら相手に侮蔑的なレッテルを貼ります。 そうした上で、「勉強不足で理解できていない」とか、「嫉妬している」などの発言をします。

自由意志と自己統制感覚

邪悪な人は、誰かに自分の言動を指摘されたり、批判されたりした場合、自分の自由意志でそうしていると主張します。 つまり、「あえて」や「わざと」そうしていると主張するのです。

例えば、炎上した場合においても自分から炎上するように仕掛けた発言などです。 その他にも、釣り宣言や効いてないアピールも含まれます。 問題点を指摘されても、訂正したり、反省するという一般的な考え方が通用しません。

問題点を指摘されたり、批判されたりすることは、自分の信じる完全な自己像が破壊されることを意味します。 そのため、自己正当化の手段として、自分の言動を曲げないことを誇りにするケースが多く見られます。

ブロガーとコミュニティ

ブログを続けていると、いつしかブロガー仲間が増え始め、次第にコミュニティを形成していきます。 ブロガーの中には、それらのコミュニティを自然発生的にではなく、自発的に形成する人もいます。 意見交換、勉強会、オンラインサロン、何かしらの目的で集まった有志の集団などです。

それらのコミュニティの中には、知名度や影響力を持ったブロガーを頂点とするコミュニティが存在します。 その有名なブロガーに憧れる多くのブロガーは、有料のメルマガ、オンラインサロン、note など、高額の情報商材を購入しています。

しかし、それらは優良なサービスがある一方で、信者や情弱なユーザに対してお金を稼ぐ悪質なものも存在します。 これらの手口は信者ビジネス、または情弱ビジネスと呼ばれ、批判の対象となっています。 具体的には、どのような点において批判されているか見ていきましょう。

意図的なバズ

SNS で拡散された記事は、瞬間的に多くの PV を獲得できます。

バズは偶然性の要素を含みますが、意図的に発生させることも可能です。 ある程度の規模のコミュニティであれば、身内の記事を仲間内で拡散したり、ブックマークすることで露出を増やし、第三者を巻き込むことができます。 例えば、はてなブックマークを利用したホットエントリーの一覧に掲載されれば、多くのアクセスを獲得できます。

はてなブックマークでは、ブックマークの数とスピードによって、新着エントリー、人気エントリー、ホットエントリーと昇格します。 ホットエントリーは、はてなブックマークのトップページにも掲載され、多くのアクセスや被リンクを獲得できます。 はてなブックマークの仕様を逆手に取るこの方法は、はてブスパム、はてブ互助会、相互はてブと呼ばれるツールやコミュニティによる自作自演の情報操作です。 はてなブックマーク側は、このような自作自演行為を規約違反と定めています。

しかし、スパムによる自作自演を除く知り合いによるブックマークはグレーゾーンですが、規約違反とはなりません。 はてなブックマークの運営側は「このような組織票は禁止していないが、ペナルティを受ける可能性がある。」と回答しています。

ブロガーは、より多くの人にブログを読んでもらいたい気持ちがあるため、意図的なバズには嫌悪感を示します。 しかし、有名なブロガーと無名なブロガーの間には明確な格差が存在します。 インターネットにおける弱者が不利な現状を是正するためのアファーマティブ・アクションは存在しません。 そのため、富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる傾向があります。

コミュニティと同調圧力

あるコミュニティの中には、必ず守らなければならない、特殊な暗黙の掟があります。 それは、身内の記事や作品を褒め合い、批判することはタブーであるという掟です。 表面上は、ブロガー同士が自由に意見交換ができるようにしているかもしれませんが、実態は空気を読んで礼賛を惜しまない態度を望む奇妙な同調圧力があります。

また、身内の記事や SNS の言動が炎上した場合であっても、批判はタブーであり、コミュニティの人間は何事もないように振る舞います。 それどころか、犯罪行為であっても何かしらの理屈を付けて擁護するケースまであります。

炎上商法と売名行為

一部のブロガーは、しばしば炎上します。 炎上はバズと似ていますが、ネガティブな効果がある点で明確に区別されます。 しかし、意図的な炎上は、しばしば売名行為や、ブログへのトラフィックを稼ぐ手段として用いられます。 多くの人は炎上していることに嫌悪感を覚えますが、炎上している本人はコストをかけずに注目、または反応されることを目的としています。 もちろん、意図的な炎上以外にも偶発的な炎上や、逆に意図を見透かされて炎上しなかったケースもあります。

野心の強いブロガーは、手段や善悪を問わずに注目を集めようとします。 炎上は、良くも悪くも多くの注目を集めるために、マーケティングにさえ利用されます。 注目が集まると、何かしらのインセンティブを得ることができます。 例えば、知名度、収益、フォロワー、被リンク、メディアへの露出などです。

この行為が批判されている理由は、詐欺まがいの情報発信により、情報リテラシーの低いユーザが犠牲になるためです。 いつの時代でも、儲け話の詐欺が横行するように、悪質なブロガーに騙される人はこれからも後を絶たないでしょう。 炎上商法で得られたインセンティブは、次に誰かを欺くための材料になります。

有料サロンと情報商材

ブロガーにおける有料サロンとは、月額会費を徴収して、ブログ運営のノウハウや情報を共有するメンバー同士のクローズドな交流会です。 優良なサロンもある一方で、悪質なサロンも存在します。 そして、その悪質なサロンこそが、信者ビジネスや情弱ビジネスなどと印象付ける大きな要因となっています。

悪質なサロンでは、「誰でも簡単にブログでお金を儲けることができる」などの売り文句で会員を取り込もうとします。 ブログ業界について何も知らない人や、情報リテラシーが低い人以外にも、金銭的な問題を抱える人など判断を誤らせる原因はいくつもあります。 国民生活センターに寄せられた情報商材トラブルの相談件数は、2013 年から増加しており、近年ではペースが速くなってきています。

クローズドなサロンでは、入会するまで具体的にどのような活動が行っているのか不透明である場合があります。 そのため、実際にサロンに入ってみたけど、思っていた活動内容と違っていて結局退会した人もいます。

これは、お互いがすべての情報を事前に把握した上での入会ではありません。 このような契約はアンフェアな同意であり、必ずしも本人が望んだ同意であるとは限りません。

入会者は、サロンに月額会費を支払う代わりに、ある種のサービスを期待します。 その期待するサービスとは、ブログで収益を上げられることや、他のブロガーとのつながりなど、そのコミュニティが掲げるマニフェストです。 具体的にどのようなサービスがどの程度まで受けられるのか、もしくは入会者がお金以外に支払うコスト (時間や自由など) はどの程度なのか、それは入会するまで分からない場合があります。 期待するほどのサービスが受けられなかった場合、トラブルに発展する可能性があります。 これらの問題点については、後述する「契約の同意における公平性」について詳しく述べます。

正義という名の暴力

インターネットでは不正が発覚すると、無関係の第三者が義憤に駆られて、しばしばネットリンチのような過激な行為にまで発展します。 このような行為は一種の集団心理ですが、その背景には正義という名の大義名分があります。 集団心理は、ときに理性や判断力を低下させ、罪悪感すら感じなくなります。

このような問題は、SNS が普及した現代社会の病のように扱われることがあります。 しかし、歴史を振り返れば、異端審問、魔女裁判、人種差別など、集団心理が判断を誤らせた事例は数多くあります。 時代が変わっても、問題の本質は何も変わっていません。

本章では、アンチと呼ばれる人たちの定義や、攻撃と批判の境界線はどこにあるのかを考えていきます。

攻撃する者

攻撃する人は、何かしらの目的や価値観、または正義感、道徳心、使命感によって攻撃を行います。 愉快犯などを除いて、攻撃する人は正しい行いをしていると思いこんでいる場合があります。 特に正義や正論を振りかざして攻撃してくる場合、対応に苦慮します。

明らかな犯罪行為などを除き、何かが絶対的に正しいという主張は評価が難しい場合があります。 一見、正義や正論に見える主張でも、主義、価値観、文化、環境、考え方などによって、対立する立場が必ずしも悪であるとは限りません。

何か、または誰かを攻撃する人は、しばしばアンチと呼ばれ、対象に激しく嫌悪感を抱く人として定義されます。 自分の嫌いなものをスルーできず、積極的に批判し、発展を阻止しようとします。 それらの行動の中には、しばしば過激な反応を見せるケースもあります。 過激な反応は、"荒らし行為" とも呼ばれ、具体的には以下のような特徴があります。

  • 上から目線での暴言、中傷、嫌味、愚痴の混ざった揶揄的なコメントをする
  • 嫌悪感を抱く対象のコンテンツ、コミュニティ、ユーザを否定・攻撃する
  • 根拠の無い邪推、思い込みで物事を決めつける

攻撃する人のコメントは感情的な難癖である場合が多く、論理的な批判とは区別されます。 感情的なコメントには、削除やブロックなどの対策が取られます。 しかし、攻撃する人は言論と自由の権利を振りかざしたり、批判が許されない言論統制などを主張し、非を認めない傾向があります。 多くの場合、感情的な難癖と論理的な批判の境界線を見失っている可能性があります。

アンチは、生理的嫌悪感、過剰な精神的ストレス、そして過激なファンから生まれます。 特に過激ファンは、自分自身で期待値を上げすぎているため、期待と異なると感じた場合に裏切られたと感じます。 裏切りを感じたファンは、個人的な愛や正義感などからアンチになる場合があり、愛情と憎悪は表裏一体であることを表しています。

アンチの中でも、とりわけ攻撃性の強い人たちは、ヘイト主義者であると見なされます。 ヘイト主義者の中には、攻撃自体を目的としている人や、娯楽の手段として楽しんでいる人さえもいます。 ヘイト主義者は、アンチの集団に紛れ込んでいるため区別がつきにくく、ネガティブな感情を加速させる負の連鎖を生み出します。

負の連鎖

ヘイト主義者による攻撃が活発になると、集団や分野全体が荒廃する悪影響を及ぼします。 攻撃、中傷、ヘイトなどが蔓延すると、正しい批判と、攻撃目的の批判の区別が曖昧になり、コメント自体の信頼性が低下します。 そうなると、正しい批判すらも攻撃目的と受け止められてしまいます。

攻撃が常態化し、どのようなコメントも攻撃目的と見なされるようになると、正しいフィードバックが行われなくなります。 正しくフィードバックが行われなくなると、改善活動が鈍化するため、徐々に荒廃していきます。

しかし、もっとも深刻な問題は、ヘイト主義者が自由に攻撃できるようになってしまうことです。 もともと過剰であった反応も正当性を持つようになり、逆に正当な主張が批判されることになります。

そのような負の連鎖は分野全体と広がり、無関係な人を巻き込みながら悪影響を及ぼすようになります。 例えば、オタクや戦争ゲームは犯罪者予備軍、鉄道オタクはマナーやモラルが欠如した集団などのイメージが好例です。 負の連鎖が分野全体に広がっている場合、外部の人たちには偏見が生まれるため、改善することはますます難しくなります。

攻撃と批判の境界線

ここでは、あなたが正しい批判を行う場合と、誤った批判 (攻撃) を受けた場合について見ていきます。

まずは正しい批判からです。 批判とは、否定や非難という意味で受け取りがちですが、正しくは客観的事実に対して論理的、合理的、多面的に評価を下すことです。 批判的思考 (クリティカル・シンキング) とは、適切に批判対象を理解し、より高度な判断を下すための思考プロセスです。

批判的思考のガイドラインはいくつかありますが、具体的には以下の提案があります。

  • 問題を正しく定義する
  • 第三者の目を意識した議論 (統一的な結論を出さなくても良い) を行う
  • 根拠を検討する
  • 論理的、合理的、公平に対象を分析する
  • 過度の単純化はしない
  • バイアス (先入観) や前提を分析する
  • 不確実性を受け入れる
  • 間違った議論を回避する

上記の点や、丁寧な口調や態度を心がけると、周りからの印象は良いものになります。 人間は、感情的になるとどのような正しい意見であっても受け入れることはないため、まずは信頼性を確保することが優先されます。

次に、攻撃を受けた場合です。 人は誰でも誹謗、中傷など、不愉快な批判をされた場合、つい感情的になってしてしまいます。 批判と攻撃の違いは批判的思考に従っているかどうかですが、まずは冷静な態度が求められます。

攻撃を受けた場合、あなたが取るべき行動は以下のとおりです。

  • 上から目線な態度、感情的な暴言、皮肉的な言葉を使わない
  • 相手の言い分を理解し、適切な対応を取る
  • 反論する場合は、論理的に行う
  • 他者の意思を代弁するような言い方は避ける (世間がそう言っているなど)
  • コメントに侮辱、差別、脅迫のような明らかに問題がある場合は、然る場所に報告する

しかし、上記の行動でも問題のすべてが解決するわけではありません。 お互いの価値観を認め合う相互理解は理想的ですが、多くの場合は平行線のまま終わります。 また、知名度が上がれば、より多くの人に認知されるために攻撃される可能性も高まります。 現実的に攻撃を仕掛けてくるすべての人を相手にしている時間も気力もありません。

イラストレーターの中村一般さんは、作品に否定的なコメントを受けたことを発端に、アンチへの対応について考え直そうと呼びかけた note を公開されています。 これは、私たちが加害者にも被害者にもなる危険性を秘めている重要な議論です。

上記の note とは別に、ツイッター上での論争もありました。 それは、作品をインターネット上に公開しているのだから、サンドバッグにされて当然という道徳観についてです。 人にはそれぞれ価値観があるため、様々な意見があるのは当然のことです。 その点については、中村一般さんも認めています。 問題視している点は、感想としてツイートするならまだしも、否定的なコメントを本人に直接ぶつけている点です。

このような行為は、直感的に正しい行為ではないと感じます。 それは、個人の品位や敬意といった、人間の基本的な権利を侵害する扱い方をされているからです。 ある状態に置かれた人間の権利が侵害されることを許容する人は、いじめや、人種差別、奴隷制なども許容することになります。

どのような状態に置かれたとしても、人間の権利が侵害されるべきではありません。 そのため、作品をインターネット上に公開しても、その人をサンドバッグにして良いという理由にはなりません。

この手の話は、誹謗中傷、批判、ネットリテラシーなどで検索すると数多く見つかります。 対抗手段の中には攻撃した人を晒し上げるような行為もあります。 このような行為はファンだけでなく、義憤に駆られた第三者を巻き込みながら炎上する事態に発展します。 過剰な報復行為は、自らの立場を悪くするので、行うべきではありません。

2ch などの掲示板では、そのような行為は荒らし行為と呼ばれ、昔から存在していました。 その文化から学ぶのであれば、攻撃する人を完全に無視することです。 相手は、あなたからの反応を望んでおり、対話や議論を望んでいません。 冷静さを失って相手と同じことをすれば、あなたも批判される側に立たされるでしょう。

quote
Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.
(怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。)
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ - 善悪の彼岸 146 節

情報格差

ここで扱う情報格差とは、通信技術の格差によって生じるデジタルデバイドではなく、リテラシーによって生じるファインダビリティの格差について述べます。

世の中には情報が溢れていますが、その中から目的の情報を効率的に探し出し、かつ正しい評価を行うことは高いスキルが要求されます。 リテラシーとは、古典的には正しく読むことや、正しく書く意味で用いられています。 しかし、現代的なリテラシーでは、メディアリテラシー、コンピュータリテラシー、情報リテラシーなど、様々な分野のリテラシーが要求されます。

ブロガーが意識しなければならないのは、読者がすべてのリテラシーを備えておらず、ファインダビリティによる格差がある点です。 人間は、自分自身の知識や認知している以上のことは知りようがありません。 つまり、Google に検索キーワードを打ち込む場合でも、自分の知っている範囲だけを映す「認知のレンズ」を通して世界を見ていることになります。 例えば、Google を使うことができても、あなたがまだ名前も知らないサイトやサービスを探し出すことはできません。

このような事例はインターネット上の出来事だけではありません。 初めて訪れた旅行先での土地勘、銀行・保険・家電量販店での一方的なセールス、冠婚葬祭でのマナーなども同じです。 ただし、無知に付け込む悪質なものは悪徳商法として分類され、利殖商法、疑似科学、情報商材などがあります。

検索と発見、そして評価は簡単なように見えてとても難しい行為です。 あなたのレンズは、正しく検索、発見、評価を行えているでしょうか。 汚れていたり、歪んでいないでしょうか。 もしかすると、それは双眼鏡かもしれませんし、顕微鏡かもしれません。 あるいは万華鏡かもしれません。

ファインダビリティの限界

情報の検索とは何でしょうか。 情報の検索という行為は、利用するプラットフォーム、知っている言葉のキーワード、そして使えるインターフェースによって決まります。 私たちはインターネットに慣れているため、Google や SNS、ユーザビリティなどを連想しますが、それだけではありません。 例えば、インターネットが使えない高齢者は、図書館に行って、本を探すために司書に相談し、紙媒体で調べます。 これらも立派な情報の検索という行為です。

しかし、情報の検索という行為は、常に正しい結果を返してくれるとは限りません。 Google が検索キーワードを無視したありがた迷惑な結果を返すかもしれませんし、図書館の司書も要望を取り違えるかもしれません。 情報の検索を難しくさせている理由は 2 つあります。

ひとつは「メタ情報」です。 メタ情報とは、検索キーワードに隠れたユーザが本当に知りたい情報のことです。 例えば、あなたは街中で見たこともないカッコいい車を目にします。 車の特徴はわかりますが、メーカーや車名はわかりません。 あなたは車の特徴を手がかりに検索キーワードをあれこれ変えてみますが、なかなかヒットしないことにイライラするでしょう。 この場合のメタ情報は、メーカーや車名になります。 その他にも、聴いたことがない音楽、見たこともない風景、知らない歴史上の人物画などがあります。

もうひとつは、検索における関連度と関心度のバランスです。 あなたにとって、より価値のある情報が探している場所の範囲を超えたところにあることは、珍しいことではありません。 例えば、Google で検索した場合、ランキングの 5 位より下位にアクセスする人は全体の 10 % 未満である統計結果があります。 あなたにとって有益な情報は、誰もアクセスしない下位の順位に掲載されているかもしれません。 あるいは、誰も検索しないキーワードでしか上位に掲載されないかもしれません。 いずれにしても、あなたの求める情報は観測範囲の外にあるかもしれません。

ユーザとブロガーは、これらの検索と発見が難しいことを経験的に知っています。 その対策として、ブロガーはページのタイトルにユーザが検索するキーワードを盛り込もうとします。 そうすることで、ユーザとプラットフォームのどちらにとっても検索と発見が行いやすくなります。

しかし、これはよく考えてみると奇妙なことです。 本来、そのような対策がなくてもユーザに有益な情報を提供することはプラットフォーム側の責任です。 問題を難しくしているのは、言語学におけるコンテクストの問題です。 例えば、「ママ」というキーワードは、母親のことか、クラブの女主人のことか判断することはできません。 一般的な固有名詞が人気のアニメやゲームなどに使用されると、検索結果は汚染され、本当に探したいものはますます見つけにくくなります。

ページのタイトルにキーワードを入れる対策は、ユーザよりもプラットフォームに依存した対策のように思えます。 逆説的ですが、この現象は Google においてさえ SEO 対策をしなければ、ユーザが本当に求める情報を提供することは困難であることを示唆しています。

現在の技術ではファインダビリティにはある程度の限界があり、コンテクストの問題を解決するためには様々な個人情報が必要になります。 しかし、フランス政府は個人情報保護を理由に Google 検索の利用を非推奨にするなど、検索と発見の問題はまだまだ解決しそうにありません。

ミレニアル世代

ミレニアル世代とは、2000 年代に成人、または社会人になる世代のことです。 ミレニアル世代は、情報リテラシーに優れ、自己中心的ですが、他者の多様な価値観 (ダイバージェンス) を受け入れ、仲間とのつながりを大切にする傾向があるとされています。 明確な年代の定義はありませんが、およそ 1981 ~ 1996 年生まれの世代とされ、日本の総人口の約 22.3 % を占めます。

ミレニアル世代は、これまでの消費者とは異なる傾向があります。 デジタル機器を利用しながら育ったデジタルネイティブであり、人よりも先にインターネットに質問する世代です。 近所の地域のつながりよりも、遠く離れた人たちと SNS でつながり、企業の宣伝よりも、プラットフォームやインフルエンサーの口コミを信用します。 自分の体験を共有したり、誰かの体験に共感したい気持ちがあり、お金よりも信頼や評価を得ることに価値を感じます。 家電製品やブランド製品などの「物 (モノ)」よりも、イベントへの参加などの「体験 (コト)」にお金を使います。 大企業に入社しての出世競争よりも起業やフリーランス、終身雇用制よりも転職を行う、在宅勤務やフレックス制度など、ワークライフバランスや働き方に自由を求めます。

ミレニアル世代には、今までのマーケティング戦略が通用しない場合があります。 広告による集客を第 1 世代、検索エンジンによる集客を第 2 世代とすれば、ソーシャルメディアによる集客は第 3 世代と言えます。 広告は予算があれば効果が期待できますが、多くの企業にとっては予算の確保が難しい状況です。 検索エンジンの集客も企業や個人を問わず SEO 対策が広く認知されているため、競合優位を保つことが難しくなっています。 そこで新たな集客方法としてソーシャルメディア対策が講じられるようになりました。

ソーシャルメディアの消費者行動モデルとしては SIPS が有名です。 SIPS とは、2011 年に電通モダン・コミュニケーション・ラボが、ソーシャルメディアを主流とする生活者消費行動を Sympathize (共感)、Identify (確認)、Participate (参加)、Share & Spread (共有・拡散) として整理した概念です。

例えば、今までの流入経路は Google の検索エンジンからの流入が主流でしたが、ミレニアル世代が SNS を利用して情報検索を行っているため、情勢は変化しつつあります。 エンゲージメントを獲得することがマーケティングの目的ならば、より効率的なプラットフォームが選択されます。 そのためには、ひとつのプラットフォームだけではなく、複数のプラットフォームを利用することは効果的です。

プラットフォーム以外にデバイスも考慮することが重要です。 今まではサイトの閲覧やサービスの利用は PC からの利用が大前提でしたが、今ではスマートフォン、タブレット、ウェアラブルからの利用が求められます。 今後は、Google Home や Amazon Echo などのスマートスピーカー、VR/AR/MR/SR などのデバイス対応も求められる可能性があります。

インターネット利用デバイスの状況
インターネット利用デバイスの状況

権威に訴える論証

情報の信頼性を高める方法のひとつとして、権威性があります。 素人が思いつきで書いた記事と、専門家が丁寧に書いた記事では、内容が同じでも信頼性が異なります。 Google も良質なコンテンツの条件に権威性を挙げており、後者の記事の方が優位であると判断します。 しかし、権威性には 2 つのリスクが伴います。

ひとつは、論理的な誤りを犯すリスクです。 例えば、スポーツ選手や俳優が腕時計や香水について一般人よりも専門知識を持つことは少ないですが、彼らが特定のブランドを推薦することは、広告として価値があります。 タイアップ商品や、コラボレーション企画、カバー、オマージュ、インスパイアなども同様です。 発信者はその分野の権威ではありませんが、人気や知名度を借りた主張は、論理的な判断を誤らせる原因になります。

SNS でもインフルエンサーが勧める商品やサービスが拡散され、信頼性をモノではなく人に依存していたケースがあります。 インフルエンサーが公開する収益、PV、コンバージョン率は権威性と混同しがちですが、直接的な関係はありません。 公開された数字は客観的な説得力を持つため、「これだけの成果を挙げている人ならば、信頼できるに違いない」と考えてしまいます。

インフルエンサーは、ブロガーからの信頼を獲得するために、どのような数字を見せれば良いのか、どのような情報を発信すれば良いのかを知っています。 何も知らない人、金銭的・精神的・時間的に追い詰められている人、意思の弱い人、誰かに何かを決めて欲しい人などが、より騙される傾向があります。

もうひとつは、権威性は妥当性を保証しないリスクです。 端的に言えば、専門家であっても間違えることもあるので、どれほどの権威性があったとしても絶対に正しいという保証にはなりません。 これは、特化サイトを運営するブロガーや、根拠を出典元に頼るブログにとっては致命的なリスクです。

ある分野の権威とされる人は、一般人よりも経験や知識が豊富と考えます。 そのため、その意見は一般人よりも正しいと認識されやすくなります。 例えば、自動車修理の分野では、一般人よりも自動車整備士が書いたブログの方が正しいと認識します。 一般人は、専門家と同程度の経験、知識、スキルを習得して検証することはできないため、専門家を信頼せざるを得ない状況になります。

このような権威性には、ある種の弱点があります。 例えば、誰かが新しくブログを始めた時点で、有名ブロガーとは権威性にある程度の差が存在します。 どれほど有益な記事を書いたとしても、有名ブロガーが書いた取るに足らない記事にすら PV で負けてしまうでしょう。

Google も権威性をランキングのシグナルとしているため、より多くのナチュラルリンクを獲得している記事を上位に表示します。 そのため、「意図的なバズ」の章でも書いたとおり、数に物を言わせた権威性のロンダリングが可能になってしまいます。

ただし、そのような格差があったとしても、有益なコンテンツを諦める理由にはなりません。 権威性によって有益なコンテンツがユーザに届かない点や、オリジナリティが損なわれてしまう点は、プラットフォーム側の責任です。 プラットフォーム側の責任を、ブロガー側で攻略してでもユーザに届ける必要性はありません。

プラットフォームへの依存と脱却

あなたのプラットフォームは何でしょうか。 Google、Twitter、Facebook、あるいは Instagram や Youtube かもしれません。 多くの人は、ブログの特性に合わせてプラットフォームを選択しています。 しかし、ひとつのプラットフォームに依存することは、リスクを抱えることになります。 例えば、流入経路を Google だけに依存している場合、アルゴリズムのアップデートでサイトの順位が飛んでしまい、トラフィックのほとんどを失います。 同様に SNS でも不用意な発言によってアカウントが凍結され、多くのフォロワーを失うケースがあります。

プラットフォームは、ユーザがインターネット上から有益な情報を探し出すための仲介役です。 クリエイターも、ユーザにコンテンツを届けるために何らかのプラットフォームに仲介してもらう必要があります。 SNS のサイト内検索を除く日本のトラフィックの統計では、90 % が Google (Yahoo! のエンジンも Google に含める) に依存しています。 このような状態でプラットフォームからの脱却は可能なのでしょうか。

プラットフォームからの脱却論は、それほど珍しい話題ではありません。 多くのサイトでは Google 以外にも SNS からの流入経路を確保するため SMO (Social Media Optimization) について書かれています。 SMO はプラットフォームからの脱却におけるひとつの答えですが、本質的ではありません。

SMO を利用して SNS で多くのフォロワーを獲得したり、ある有名なコミュニティに属することは、アカウントの評判を集めるだけです。 そのようなアカウントで多くのフォロワーを獲得しても、従来のプラットフォームから脱却したことにはなりません。

プラットフォームからの脱却は、他のプラットフォームを攻略するということではありません。 それは他のプラットフォームへの新しい依存であり、鞍替えをしているに過ぎません。 プラットフォームに依存しない脱却の本質とは、情報の網羅性、希少性、信頼性など、ユーザに対する有益性を高めることです。 ユーザは、有益そうな情報を発信するアカウントを求めているのではなく、有益な情報を求めています。

例えば、Google は高品質な情報をユーザに提供しようと細かくアップデートを繰り返しています。 アップデートに合わせて記事を修正することは、プラットフォームへの依存であり、そのような修正は Google も求めていません。 本当にユーザの利益になるための高品質な記事を書けば、Google の方から見つけてくれます。

プラットフォームからの脱却のヒントは、プラットフォームが行う行為から見つけるのではなく、行為の理由や背景から見つけるべきです。 例えば、Google が何かのアップデートを行った場合、それが何を目的として行ったのかを考えるべきです。 スピードアップデートは、パフォーマンスが遅いサイトの順位を落としましたが、なぜそのようなアップデートを行ったのかを考えましょう。 それらのアップデートは、すべて Google の理念に一致しているはずです。

どのようなプラットフォームでも、ユーザの期待に応えるために行っているアップデートは複雑ではありません。 シンプルな理念や信念、もしくは美学や哲学などに従って、より良い商品やサービスを届けるためにアップデートを行っています。 それらを必要以上に複雑に考えているのは、私たちです。 もしも、この論拠に違和感を感じるのであれば、それだけプラットフォームに依存していることになります。

ブロガーとしての正義

多くのブロガーを見てきた人の中には、ブロガーへの不信感が募り、もはや期待や信頼を失っている人もいます。 一部のブロガーの非常識な言動のせいで業界全体が悪く見られてしまうのは「負の連鎖」で述べたとおりです。

ブロガーは、情報を発信する役割を担います。 それらの情報は、誰かの悩みや問題を解決するために活用されるべきであり、ブロガー自身の利益を目的としてはなりません。 しかし、実態は PV や収益を目的とした記事が横行しています。 センセーショナルなタイトルで煽り、今までの常識や規範に背くような内容で、より多くの人に記事を読ませることを目的としています。 なぜなら、その動機や理由は、道徳的な価値よりも、インセンティブを得る価値の方が大きいと感じているからです。

もちろん、その中には私たちが今まで誤解していたようなことを正す目的で書かれた記事もあります。 しかし、多くの記事は世間の関心事に対して重箱の隅をつついたような問題提起を行い、自己正当化するような論調で読者を不安にさせます。 程度問題にせよ、より多くの PV や収益を獲得するために読者を欺き、扇動し、挑発し、不安を掻き立て、感情に訴えて成果を上げようとします。

この問題の深刻な点は、そのような悪質なブログであっても成果が出ている点です。 Google も過去に信頼性のないサイトを圏外まで飛ばすアップデートを行っていますが、対症療法に過ぎません。 現在のところ、根本的な解決手段がない事実は、問題を深刻化させ、インターネットが汚染されることに拍車をかけています。

この問題を根本的に解決するためには Google の努力だけでは足りません。 必要とされているのは私たちの努力であり、問われているのは私たちの良心です。 私たちの努力と良心にインターネットの将来がかかっています。

私たちブロガーは、正義という難問に対して、どのように向き合っていけば良いのでしょうか。 公正さ、道徳、幸福、自由、そして責任。 私たちは、誰もがこの難問に対して答えを出しながら生きています。

インフルエンサーと道義的責任

ノブレス・オブリージュ (noblesse oblige) とは、高貴さは (義務を) 強制することを意味するフランス語です。 財産、権力、社会的地位の保持には、より多くの責任が伴うことを表しています。 倫理的な議論としては、富裕層、有名人、権力者、高学歴者が、社会の模範となるように振る舞うべきという社会的責任に関して用いられます。 ここでは、インフルエンサーにおける道義的責任について考えていきます。

インフルエンサーは、一般的なユーザと比べて遥かに強い発言力や、影響力を持ちます。 しかし、すべてのインフルエンサーが社会の模範となるような振る舞いをしているわけではありません。 彼らには自由があります。 言論の自由、表現の自由、思想の自由などです。 それらは日本国憲法でも定められており、侵害することはできません。

ノブレス・オブリージュは、憲法や法律ではありません。 もともとは、貴族に自発的な無私の行動を促す明文化されない不文律の社会心理です。 法的な義務ではないため、自由な振る舞いをしても法律上の処罰はありません。 しかし、合法的な振る舞いであったとしても、しばしば社会的批判を受けたり、倫理や人格を問われるケースに発展するのはなぜでしょうか。

インフルエンサーが批判を受けるようなケースはどのような場合だったか思い出してみてください。 一般的に知られている原因としては、反社会的行為、侮蔑的・差別的発言、利益誘導、自作自演、知識不足などです。 しかし、これらの行為そのものは真の原因ではありません。 真の原因は、行為の動機にあります。

炎上するような行為の動機には、道徳的かどうかを知るヒントが隠されています。 例えば、自己の利益のために他人に嘘をつくのであれば、それは道徳的ではありません。 しかし、大切な人を傷付けないために嘘をつくことは、嘘も方便とも言われるとおり、一概に道徳的ではないとは言えません。

インフルエンサーの行為の動機が、何かしらの道徳、倫理、社会規範や社会通念に従ったものではなく、自己の利益のために行っている場合、どのような行為であったとしても道徳的ではありません。 例えば、「FX はリスクはあるが資産運用として有効だから多くの人に知って欲しい」という動機で書いた記事と、「リテラシーの低い人を食い物にする」ために書いた記事では、内容が同じであったても、そこには明確な違いがあります。 記事の内容だけを見れば同じに見えますが、帰結 (結果) は行為の道徳性を正当化しません。 もしも正当化する場合、結果さえ良ければ、その過程で何をしても許されることになります。 行為の帰結が道徳性を正当化しない点については、後述する「ブログ収益化と功利主義」で詳しく述べます。

このような炎上は、ある意味では有名税として扱われる場合があります。 有名税とは、有名であるがゆえに、知名度と引き換えに生じる問題や代償を税金に例えた単語です。

有名である以上、一般の人よりも多くの人からフィードバックを受けることになります。 その人たちの中には、直接的、または間接的に批判する人もいるでしょう。 有名税とは、有名である以上、本人の望む・望まないに関わらず何らかの形で支払わなければならない代償です。

インフルエンサーが炎上しやすい理由を別の側面から考えたとき、機能的リーダーシップモデルが参考になります。 機能的リーダーシップモデルでは、メンバーがリーダーに権限を委譲する代わりに、サービスを期待します。 例えば、医者には自分の身体を調べる権限を与える代わりに、治療というサービスを期待します。

インフルエンサーは、フォロワーから形成されるコミュニティのリーダーであると考えることができます。 機能的リーダーシップモデルで考えるならば、インフルエンサーをフォローする代わりに、有益な情報が提供されることを期待します。 しかし、その提供された情報が偽りの情報である場合、正しいサービスを受け取っていないので、炎上という形で代償を支払うことになります。

ブログ収益化と功利主義

ブログで収益を得ている人は大勢います。 アドセンスや、アフィリエイト、note などの課金サービスなどです。 広義には、執筆依頼や、講演、有料のオンラインサロン、本の出版なども含まれます。

今やブログは単なる日記ではありません。 広告の媒体や、有益な情報を取引するひとつの市場にまで発展しました。 しかし、市場における道徳の問題も同時に生まれています。

市場と道徳の問題は、世界中に存在します。 例えば、行列の待ち時間を避けるためにファストパスを購入すれば、先頭に割り込むことができます。 その他にも、ラッシュアワーの時間帯でも座れる有料座席、永住許可証、CO2 を排出して大気汚染をする権利、絶滅危惧種のハンティングする権利、製薬会社の治験、代理出産、臓器提供などです。

このような市場と道徳の問題は、ブロガーには無関係な話なのでしょうか。 ユーザの便益を無視した Welq のキュレーションサイトや、ブラックハット SEO によるトラフィックの獲得、リテラシーの低い情報弱者への情報商材の販売やオンラインサロンへの勧誘、著作権・知的財産権を侵害する漫画村サイトや海賊版サイト、閲覧者の CPU で仮想通貨をマイニングするソフトなどはどうでしょうか。 もっと身近な例もあります。 記事のタイトルと内容の相違、大げさな表現、ミスリードを誘う文章、誤クリックしやすいデザイン、度を越える記事の引用、派手な効果やアニメーション、追従するボタンやコンテンツ、広告ブロッカーをブロックするスクリプト、突然現れるダイアログ、画面を埋め尽くすサブコンテンツなどです。 市場と道徳の問題は、程度問題であれ誰しもが直面する問題です。

ブロガーは、なぜユーザの便益を損ねるような真似をするのでしょうか。 大きな理由としては、コンバージョンの獲得です。 ユーザビリティが多少損なわれても、コンバージョン率が大幅に向上する場合、広告の設置場所を変更するブロガーは多いでしょう。 そのような行為を突き詰めていくと、やがてブラックハットのような手法になります。 収益を最大化するために、どこまでユーザビリティを犠牲にするかのバランスは、とてもセンシティブな問題です。

19 世紀のイギリスの哲学者、ジェレミー・ベンサムは社会全体の幸福を重視する考え方として功利主義を体系化しました。 ベンサムの考える「正しい行い」とは、"効用" を最大化するあらゆるものだと述べています。 つまり、正しい行為とは最大多数個人の最大幸福をもたらすものです。 最大多数個人の最大幸福とは、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべき」という意味です。 これは、トロッコ問題のように 5 人を助けるためには 1 人を犠牲にしても構わないという、何かしらの数に置き換えて計算する考え方です。

注意しなければならない点として、「功利主義」と「利己主義」は混同されがちですが、明確に区別されます。 一般的に功利主義は「万人の利益」となることを善とする立場を指し、利己主義は「私利」のみを図ることを善とします。

コンバージョンの獲得は、ブロガーとユーザの双方に利益をもたらすため、最大幸福を考える場合、功利主義は適切であるように感じます。 しかし、功利主義には道徳的にある種の問題を抱えています。 それは、トロッコ問題のように他人の不幸によって得られる効用の問題です。 これをコンバージョンの例に当てはめると、コンバージョン率を上げるためにはユーザビリティを犠牲にしても良いことになります。 例えば、ユーザの気を散らすことになっても シェア率を上げるために常に SNS ボタンが追従する UI などがあります。

教科書的なサイトでは、コンバージョンを最大化するためにユーザビリティを高めることを推奨しています。 しかし、基本的なユーザビリティ要件を満たすサイトから、それ以上にコンバージョンを高めようとする場合、ある程度はユーザビリティを犠牲にしなければなりません。 高いコンバージョンを獲得しようとする場合、ブラックハットとは言えないまでも、決してホワイトハットとは呼べない手法に手を染めることになります。 これらの行為は、私たちを市場と道徳の問題に引き戻し、Google からペナルティを受けるリスクを高めます。

多くのブロガーは、そこまで極端なブラックハットには手を染めていません。 それは良心からなのか、Google のペナルティを恐れているからなのか、どちらなのでしょうか。 もしも、Google からのペナルティがなければ、私たちはブラックハットに手を染めるのでしょうか。

Google のペンギンやパンダが襲ってくる以前は、ブラックハットを行っているサイトは少なからずありました。 しかし、それらは一部のサイトのみであり、多くのサイトは利益を獲得するためにユーザビリティを犠牲にはしませんでした。

コンバージョンや収益は可能な限り最大化したいという欲求がある一方で、多くの人はブラックハットに手を染めてまでユーザの便益を損なうことはしていません。 その事実は、功利主義、または利己主義が直感的に正しくないという、ひとつの答えを示唆しています。

契約の同意と公平性

クローズドな有料サロンや、高額な note、pixiv のファンボックス、有料のメールマガジンなど、実際にお金を支払わなければ価値が評価できないサービスはいくつかあります。 このようなサービスは、互いの同意によって契約を結んでいますが、入会や購入してみるまでは価値がわからないため不公平に感じられます。

アドセンスやアフィリエイトについても、同意への問題について直面することになります。 ページに広告を貼り付けることは作者の自由ですが、ユーザはコンテンツ内に広告が表示されることには同意していません。 多くのユーザはコンテンツ内にある広告を嫌っており、広告を非表示にするために AdBlocker などのプラグインを入れているユーザもいます。

最近の動向では、欧州連合 (EU) が一般データ保護規則 (GDPR) を施行したことに伴い、コンテンツにクッキーを使っている場合は同意を求めるポップアップが出てくるようになりました。 その他にも、位置情報の許可、通知の許可、アプリをホーム画面に追加する許可、HTTPS ではないサイトへのアクセス許可など、様々です。

同意には、ある種の拘束力があります。 私たちが契約に同意するとき、相手には契約を正しく履行することを期待し、相手は契約によってサービスを提供しなければならない道徳的な義務を負います。 例えば、あなたはアーティストのライブチケットの抽選に当選し、チケット代を全額支払ったとします。 しかし、ライブは中止となり、運営側はチケットの 50 % しか払い戻しには応じなければ、道徳的な義務を放棄していることになります。 もちろん、チケット購入時の契約内容に払い戻しについて明記されていれば、あなたは同意によって購入しているため、50 % 以上の払い戻しを要求することはできません。

しかし、互いに同意したとしても、契約が不公平であるケースがあります。 例えば、欠陥住宅、霊感商法、架空請求、偽装表示などの悪徳商法などで、その中には情報商材も含まれます。 これらの契約が不公平と感じるのは、相手の無知や弱みに付け込んで同意を取り付けている点です。

このような事例は、契約の道徳的限界について、2 つのことを示唆しています。 ひとつは、同意だけでは同意の公平性は保証されないという点。 もうひとつは、同意を得ただけでは道徳的な拘束力は発生しないという点です。 同意による道徳的な義務は、自律的な同意と、当事者双方に利益をもたらす互恵性があって、はじめて効果を発揮します。

しかし、互恵性は契約の公平性を複雑なものにします。 例えば、あなたがコンビニで週刊誌を立ち読みをしようとする場合、まだ今週号の価値を知らないため互恵性はありません。 立ち読みを終えた状態では、あなたは今週号の価値を知っていますが、必ず購入しなければならない義務はないので、今度は逆に提供側の互恵性が失われています。

互恵性のバランスを取る方法はいくつかあります。 例えば、ゲームの体験版、スーパーの試食、ディーラーでの試乗、Amazon や Youtube などの無料体験などです。 これらは、商品やサービスの一部、またはすべての商品やサービスを期限付きで提供することで互恵性のバランスを取っている例です。

note でも、目次と冒頭部分を無料で公開し、重要な部分は有料で非公開とすることによって、互恵性のバランスが取れるようにしています。 ただし、購入者は非公開の部分を、公開されている部分と同程度以上の価値を望んでいます。 もしも、有料部分が無価値なものであれば、互恵性を軽んじることになるため、トラブルに発展するでしょう。

note の互恵性を確保する方法は、Google アドセンスのプログラムポリシーにもヒントがあります。 広告のあるページは、より良質なコンテンツを掲載することを推奨しています。 このポリシーは、Google が提供する広告主の権利を守る側面もありますが、ユーザに良質なコンテンツを提供することで互恵性を担保する側面もあります。

まとめ

ブログは面白くもあり、大変でもあります。 趣味でブログを始める場合は何も問題はありませんが、それを本業とする場合はよく考えてみる必要があります。 ブログでは簡単に収入を得られるとよく見聞きしますが、決して簡単なものではありません。 それはセンスや技術や運などの問題ではなく、ブログに関連する様々な問題と向き合う必要があるためです。

起業した中小企業の 5 年生存率が 15 %であるように、ブロガーの生存率も似たようなものです。 それらを乗り越えて生き残ったブロガーの姿は、華やかであり、好きなことで生きているように見えるため、羨ましくもあり、真似をしてみたいという気持ちも理解できます。 しかし、見えない場所では誰にも言えない苦悩を抱えているかもしれません。

好きなことだけをして好きに生きられるのであれば、それ以上の幸せはありません。 不可能ではありませんが、その裏に隠れた問題点から目をそらさない努力を忘れないでください。